一 左大臣仲平
この大臣は、基経のおとどの次郎。御母は、本院の大臣に同じ。大臣の位にて十三年ぞ御座せし。枇杷の大臣と申す。御子持たせ給はず。伊勢集に、
花薄われこそしたに思ひしかほに出でて人にむすばれにけり
などよみ給へるは、この人に御座す。貞信公よりは御兄なれども、三十年まで大臣になりおくれ給へりしを、つひになり給へれば、おほきおほいどのの御よろこびの歌、
おそくとくつひに咲きぬる梅の花たが植ゑおきし種にかあるらむ
やがてその花をかざして、御対面の日、よろこび給へる。
廂の大饗せさせ給ひけるにも、横さまに据ゑ参らせさせ給ひけるこそ、年頃少しかたはらいたく思されける御心とけて、いかにかたみに心ゆかせ給へりけむと、御あはひめでたけれ。この殿の御心、誠にうるはしく御座しましける。皆人聞き知ろしめしたることなり、申さじ。
このおとどに伊勢の御息所の忘られてよむ歌なり。
人知れずやみなましかばわびつつも無き名ぞとだに言はまし物を
一 太政大臣忠平 貞信公
この大臣、これ、基経のおとどの四郎君。御母、本院の大臣・枇杷の大臣に同じ。このおとど、延長八年九月二十一日摂政、天慶四年十一月関白の宣旨かぶり給ふ。公卿にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給ふこと二十年。後の御諡号貞信公と名づけ奉る。子一条の太政大臣と申す。朱雀院并びに村上の御舅に御座します。この御子五人。その折は、御位太政大臣にて、御太郎、左大臣にて実頼のおとど、これ、小野宮と申しき。二郎、右大臣師輔のおとど、これを九条殿と申しき。四郎、師氏の大納言と聞こえき。五郎、また左大臣師尹のおとど、子一条殿と申しきかし。これ、四人君達、左右の大臣、納言などにて、さしつづき御座しましし、いみじかりし御栄花ぞかし。女君一所は、先坊の御息所にて御座しましき。
つねにこの三人の大臣たちの参らせ給ふ料に、小一条の南、勘解由小路には、石畳をぞせられたりしが、まだ侍るぞかし。宗像の明神の御座しませば、洞院・小代の辻子よりおりさせ給ひしに、雨などの降る日の料とぞ承りし。凡その一町は、人まかり歩かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩き侍れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給ふれ。この翁どもは、今もおぼろけにては通り侍らず。今日も参り侍るが、腰のいたく侍りつれば、術なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥をふみこみて候ひつれば、きたなき物も、かくなりて侍るなり』とて、引き出でて見す。
(世継)『「先祖の御物は何もほしけれど、小一条のみなむ要に侍らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道殿は仰せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神、うつつに、物など申し給ひけり。「我よりは御位高くて居させ給へるなむ、くるしき」と申し給ひければ、いと不便なる御こととて、神の御位申しあげさせ給へるなり。
この殿、何の御時とは覚え侍らず、思ふに、延喜・朱雀院の御ほどにこそは侍りけめ、宣旨承らせ給ひて、おこなひに陣座ざまに御座します道に、南殿の御帳のうしろのほど通らせ給ふに、物のけはひして、御太刀の石突をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪ながくて刀の刃の様なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆したるさま見えじと念ぜさせ給ひて、「おほやけの勅宣承りて、定に参る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給へりければ、まどひてうち放ちてこそ、丑寅の隅ざまにまかりにけれ。思ふに夜のことなりけむかし。こと殿ばらの御ことよりも、この殿の御こと申すは、かたじけなくもあはれにも侍るかな』とて、音うちかはりて、鼻度々うちかむめり。
(世継)『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給へるとこそ、人申し伝へたれ。天暦三年八月十一日にぞ失せさせ給ひける。正一位に贈せられ給ふ。御年七十一。
一 太政大臣実頼 清慎公
このおとどは、忠平のおとどの一男に御座します。小野宮のおとどと申しき。御母、寛平法皇の御女なり。大臣の位にて二十七年、天下執行、摂政・関白し給ひて二十年ばかりや御座しましけむ。御諡号、清慎公なり。
和歌の道にもすぐれ御座しまして、後撰にもあまた入り給へり。おほかた、何事にも有識に、御心うるはしく御座しますことは、世の人の本にぞひかれさせ給ふ。小野宮の南面には、御髻放ちては出で給ふことなかりき。そのゆゑは、稲荷の杉のあらはに見ゆれば、「明神、御覧ずらむに、いかでかなめげにては出でむ」と宣はせて、いみじくつつしませ給ふに、おのづから思し召し忘れぬる折は、御袖をかづきてぞ驚きさわがせ給ひける。
この大臣の御女子、女御にて失せ給ひにき。村上の御時にや、よくも覚え侍らず。男君は、時平のおとどの御女の腹に、敦敏の少将と聞こえし、父大臣の御先にかくれ給ひにきかし。さていみじう思し嘆くに、東のかたより、失せ給へりとも知らで、馬を奉りたりければ、大臣、
まだ知らぬ人もありけり東路に我もゆきてぞ住むべかりける
いとかなしきことなり」とて、目おしのごふに、
(世継)『大臣の御童名をば、うしかひと申しき。されば、その御族は、牛飼を「牛つき」と宣ふなり。
敦敏の少将の子なり、佐理の大弐、世の手書の上手。任はてて上られけるに、伊予国のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて、風おそろしく吹きなどするを、少しなほりて出でむとし給へば、また同じやうになりぬ。かくのみしつつ日頃過ぐれば、いとあやしく思して、物問ひ給へば、「神の御祟」とのみ言ふに、さるべきこともなし。いかなることにかと、怖れ給ひける夢に見え給ひけるやう、いみじうけだかきさましたる男の御座して、「この日の荒れて、日頃ここに経給ふは、おのれがし侍ることなり。よろづの社に額のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思ふに、なべての手して書かせむがわろく侍れば、われに書かせ奉らむと思ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめ奉りたるなり」と宣ふに、「たれとか申す」と問ひ申し給へば、「この浦の三島に侍る翁なり」と宣ふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申すと思すに、おどろき給ひて、またさらにもいはず。
さて、伊与へわたり給ふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追風吹きて、飛ぶがごとくまうで着き給ひぬ。湯度々浴み、いみじう潔斎して、清まはりて、昼の装束して、やがて神の御前にて書き給ふ。神司ども召し出だして打たせなど、よく法のごとくして帰り給ふに、つゆ怖るることなくて、すゑずゑの船にいたるまで、たひらかに上り給ひにき。わがすることを人間にほめ崇むるだに興あることにてこそあれ、まして神の御心にさまでほしく思しけむこそ、いかに御心おごりし給ひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえはとり給へりし。六波羅蜜寺の額も、この大弐の書き給へるなり。されば、かの三島の社の額と、この寺のとは同じ御手に侍り。
御心ばへぞ、懈怠者、少しは如泥人とも聞こえつべく御座せし。故中関白殿、東三条つくらせ給ひて、御障子に歌絵ども書かせ給ひし色紙形を、この大弐に書かせまし給ひけるを、いたく人さわがしからぬほどに、参りて書かれなばよかりぬべかりけるを、関白殿わたらせ給ひ、上達部・殿上人など、さるべき人々参りつどひて後に、日高く待たれ奉りて参り給ひければ、少し骨なく思し召さるれど、さりとてあるべきことならねば、書きてまかで給ふに、女の装束かづけさせ給ふを、さらでもありぬべく思さるれど、捨つべきことならねば、そこらの人の中をわけ出でられけるなむ、なほ懈怠の失錯なりける。「のどかなる今朝、とくもうち参りて書かれなましかば、かからましやは」とぞ、皆人も思ひ、みづからも思したりける。「むげの、その道、なべての下臈などにこそ、斯様なることはせさせ給はめ」と、殿をも謗り申す人々ありけり。
その大弐の御女、いとこの懐平の右衛門督の北の方にて御座せし、経任の君の母よ。大弐におとらず、女手書にて御座すめり。大弐の御妹は、法住寺のおとどの北の方にて御座す。その御腹の女君は、花山院の御時の弘徽殿の女御、また、入道中納言の御北の方。また、男子は、今の中宮の大夫斎信の卿とぞ申すめる。
小野宮の大臣の三郎、敦敏の少将の同じ腹の君、右衛門督までなり給へりし、斎敏とぞ聞こえしかし。その御男君、播磨守尹文の女の腹に三所御座せし。太郎は高遠の君、大弐にて失せ給ひにき。二郎は懐平とて、中納言・右衛門督までなり給へりし。その御男子なり、今の右兵衛督経通の君、また侍従宰相資平の君、今の皇太后宮権大夫にて御座すめる。その斎敏の君の御男子、御祖父の小野宮のおとどの御子にし給ひて、実資とつけ奉り給ひて、いみじうかなしうし給ひき。このおとどの御名の文字なり、「実」文字は』
といふほども、あまり才がりたりや。「童名は、大学丸とぞつけたりける。
『その君こそ、今の小野宮の右大臣と申して、いとやむごとなくて御座すめり。このおとどの、御子なき嘆きをし給ひて、わが御甥の資平の宰相を養ひ給ふめり。末に、宮仕人を思しける腹に出で御座したる男子は、法師にて、内供良円の君とて御座す。また、さぶらひける女房を召しつかひ給ひけるほどに、おのづから生まれ給へりける女君、かくや姫とぞ申しける。この母は頼忠の宰相の乳母子。北の方は、花山院の女御、為平の式部卿の御女。院そむかせ給ひて、道信の中将も懸想し申し給ふに、この殿参り給ひにけるを聞きて、中将の聞こえ給ひしぞかし、
うれしきはいかばかりかは思ふらむ憂きは身にしむ心地こそすれ
この女御、殿に候ひ給ひしなり
この女君、千日の講おこなひ給ふ。資家の中納言の上の腹なり。兼頼の中納言の北の方にて失せ給ひにき。おほかた、子かたく御座しましける族にや。これも、中宮の権大夫の上も、継子を養ひ給へる。
この女君を、小野宮の寝殿の東面に帳たてて、いみじうかしづき据ゑ奉り給ふめり。いかなる人か御婿となり給はむとすらむ。
かの殿は、いみじき隠り徳人にぞ御座します。故小野宮のそこばくの宝物・荘園は、皆この殿にこそはあらめ。殿づくりせられたるさま、いとめでたしや。対・寝殿・渡殿は例のことなり、辰巳の方に三間四面の御堂たてられて、廻廊は皆、供僧の房にせられたり。湯屋に大きなる鼎二つ塗り据ゑられて、煙立たぬ日なし。御堂には、金色の仏多く御座します。供米三十石を、定図におかれて絶ゆることなし。御堂へ参る道は、御前の池よりあなたをはるばると野につくらせ給ひて、時々の花・紅葉を植ゑ給へり。また舟に乗りて池より漕ぎても参る。これよりほかに道なし。
これよりほかの道なきけにや、心やすきけなし。さだめて、三日精進なり。さらずはあへてたひらかに参るべきならず。
住僧にはやむごとなき智者、あるいは持経者・真言師どもなり。これに夏冬の法服を賜び、供料をあて賜びて、わが滅罪生善の祈、また姫君の御息災を祈り給ふ。
この小野宮をあけくれつくらせ給ふこと、日に工の七八人絶ゆることなし。世の中に手斧の音する所は、東大寺とこの宮とこそは侍るなれ。祖父おほいどのの、とりわき給ひししるしは御座する人なり。まこと、この御男子は、今の伯耆守資頼と聞こゆめるは、姫君の御一つ腹にあらず、いづれにかありけむ。